skinobject 奥田行 東京

どんなクリエイションよりも、人ほど面白いものはない(前編)
VOICEの香内斉が、尊敬する“人”にフォーカスを当てる「JOURNAL」。10人目としてご登場いただくのは、陶芸作家として本格的に歩みを始めた奥田行(ごう)さんです。奥田さんはMANHOODの代表で美容師としての顔を持ち、写真家としても活動しています。VOICEにギャラリーを設けるきっかけをつくった人でもあり、「僕にとってのキーパーソン」と言う香内。陶芸に至るまでの道のりについて聞きました。(全2回)
text:Kaori TAKAYAMA(Magazine isn’t dead.)/ photo:Hitoshi KONAI
図工が大好きな少年時代
美容と写真、そして陶芸。一見どれもが違うように見えるが、すべてに“表現”という共通項がある。その源をたどると、「とにかく図工が大好きだった」という奥田少年がいた。
「小学生の頃は粘土や木工、家から持ってきた空き瓶などを使っていろんなものをつくりますよね。図工がずっと大好きで、成績も小学生の間はずっとAでした。親もそういう子どもだと思っていたのか、お絵描き教室にも行かせてもらっていて。とにかく手を動かすことが好きだったんです」
そんな奥田少年に影響を与えたのが、友人の父親だった。
「小学生のときにずっと仲がよかった友達のお父さんが、男のカルチャーを教えてくれたんですよ。キャンプもそうだし、サイクリング、レゴ、モスバーガーの味、ZIPPO、プロレスなどめちゃくちゃいろいろあって。何年か前に亡くなったと聞いて、改めて思い出したんですよね。特に覚えているのが銀杏拾い。最初は公園に落ちている銀杏を臭いなとしか思えなかったのが、銀杏入りの茶碗蒸しを食べたら、茶碗蒸しも銀杏も一気に好きになって、自分の中で革命が起きて。ネガティブな出会いから始まったのに、好きまでたどり着いた感動を今でもすごく覚えています。それから…」
思い出話が尽きないほど、奥田さんの感性を育ててくれた人のようだ。2014年に発売した写真集『銀杏中毒』は、当時の思い出に着想を得て制作したという。
図工から写真、そして美容へ
写真に興味を持ち始めたのは中学生の頃。使い捨てカメラで友人を撮るうちに、高校時代にはライフワークになっていた。
「自然な姿を収めたくて、『カメラを見ないで』と言ってましたね。高校からバンドを始めて記録としても撮っていましたし、同じ頃に8ミリビデオカメラにも目覚めて。撮るのが好きでこだわるようにもなって、ずっと撮っていました。写真のネガが特に好きで。写真が連なっているのがかっこいいと思ってネガの余白を切って、ファイリングしたりもしていました」
図工の延長のように写真を捉えていたようにも感じられる。「小学校のときからの癖なんですよね。同じような感覚はいまもずっとあります」と笑う。
ところで、美容師を目指すのはいつ頃からなのだろうか。
「実は元々熱心な気持ちはなくて。高校卒業前の進路選択で消去法をたどって、美容師かインテリアになんとなく絞られました。どちらの専門学校にも見学へ行くと、たまたまなんですけど、インテリアの方は座学で、美容学校の方が髪を巻いたり、切るという風景が見られたんですよ。美容学校に行ったらこんなふうに手を動かせるんだと思って、美容を選んだんです。選んだからにはしっかり向き合おうという性格なので、美容師になると決めました。だから、美容師になったのは専門学校を選んだことがきっかけです」

ターニングポイントとなった大きな挫折
専門学校を卒業後、SHIMAへ入社した。ボロボロの古着を着こなしていた当時のスタッフやヘアショーに憧れ、「SHIMAしか考えられなかった」と振り返る。子どもの頃からなじみの街でもある吉祥寺店へ希望を出し、配属。内定後に直談判して卒業前から働き始めていたため、同期が入社してきたときには奥田さんだけがすでにお客さんにシャンプーをしていた。
「それで調子に乗っちゃって、1年でデビューしたいくらいの気合いでいました。店長からも『こいつはやるだろう』と見てもらえていたと思います。でもなかなかデビューできなくて。描いた理想通りにならなくて、人生初めてのストレスが始まるんです。胃が痛くなるようになって。頑張っているけど技術がついてこないとか、先輩に怒られたり、『その服ダサいな』と言われたり、大きな挫折がありました。自分はできると思っていたから、尚更その反動が強くて」
苦しい日々の一方で、遊びにも全力投球だった。クラブイベントに毎日出かけ、お酒を飲み、当時はタバコも吸っていた。そこにストレスが重なり、ついには胃と腸に穴が空く。身体の痛さを無視して仕事と遊びを続けた結果、救急車で運ばれてしまう。
「1ヶ月くらい入院していました。ある日、『将来一緒に店をやろう』と言ってくれていた専門学校時代の友人が見舞いに来てくれたんですけど、第一声に『お店いつやろうか』って言うんですよ。『大丈夫?』じゃなくて(笑)。友人が帰ったあと、今後の自分の人生を考えるようになったんです。もちろんSHIMAでスタイリストになりたいけど、そのあとの自分らしい生き方ってなんだろうって」

思いがけず独立へ
退院後、店に復帰するが身体は完全に回復していない状態だった。そして数ヶ月後、無事にスタイリストとしてデビュー。しかし、友人からの誘いも気になっていた。そんな矢先、体調を気にかけていた父が勝手に店に電話をし、店長に相談する。後日その話を店長から聞き、「続けられるのか?」と打診された奥田さんは、いろいろと考えた上で一旦休養することも視野に入れながら大好きなSHIMAを辞める決断をする。24歳だった。
「友人に辞めることを伝えると、『よし、やるぞー!』って言うんですよ。それで元々約束していた友人たち4人で店を始めました。一世を風靡するってこのことかって思ったくらいうまくいくんです。でも、いろいろなことがあり店を離れる決意をします。同じタイミングで妻が美容室をオープンしていたため、合流する形で再スタートしました。おかげさまでこちらの店舗もだんだんと手狭になり、新たな場所を探し始めました」
それがいまのMANHOODだ。
「物件を見つけたとき、最初から空間が壁で分け隔てられていて、このスペースで何か面白いことができそうだと思いました。2013年にオープンして、2015年からの3年間はPAST&FOWARDというギャラリーも運営していました。僕は独立の仕方が特殊すぎますよね。美容師も自分がどうしてもやりたいというところから始まっていないですし、独立願望がなかったのに、友人に誘われたから面白そうだと思って飛び込んだに過ぎません」(後編へ続く)