​KANSAI NOGUCHI STUDIO 野口寛斉 東京

https://www.kansainoguchistudio.com

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“野口寛斉”という生き方 (前編)

VOICEの香内斉が、自身と深く繋がりを持ち、尊敬するにフォーカスを当てる「JOURNAL」。4人目としてご登場いただくのは、初めて個展を開催した場所がVOICEである陶芸家の野口寛斉(かんさい)さんです。VOICEでの3度目の個展を約1週間後に控えたある日、我々は寛斉さんのご自宅兼アトリエを訪ねました。

text:Kaori TAKAYAMA(Magazine isn’t dead.)/ photo:Natsumi ITO

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子供時代からの好奇心を起点に

 力強く、潔いフォルム。地に足をつけるように積み重ねてきた年月が、佇まいとして作品に宿る。

 「陶芸だけではなくやりたいことをやって、アーティストとして最終的に行き着けるところまでいきたいと思っていて。今一番の夢は、海外で個展を開催することですね」と話す寛斉さんは、2016年にKANSAI NOGUCHI STUDIOを立ち上げ、陶芸道を極めている最中だ。陶芸の世界に足を踏み入れたのは2013年。それまでは音楽に打ち込んでいたという意外な過去がある。どのようなきっかけで音楽から陶芸へ方向転換したのだろうか。そこには子供時代から続く好奇心を起点とした、寛斉さんの唯一無二の生き方があった。

 「小学校の頃、とにかく習い事に行きたがる子供で全部行かせてもらっていたんですよ。野球、サッカー、バスケ、習字、少林寺拳法、そろばんを習っていました」。一度決めたら最後までやるように、という両親の教えもあり習い事を続けたが、そろばんのみ辞めてしまった。「姉ちゃんがやっていたから僕も、となったのですが、『あいつは行きたいだけだから辞めさせた方がいい』と言われて(笑)。途中で辞めたんです」。

 生まれ育ちは福岡県の志賀島(しかのしま)。福岡市から地続きになっている小さな島で、住所こそ福岡市ではあるものの中心部からは離れている。中学時代は野球漬けの日々。高校は市内の強豪校へ推薦入学。実家を離れ、寮生活を始めた

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プロを意識した原点

 「田舎者だったから、高校に行って初めて街の人に触れたというか。都会の人たちがかっこよくみえて、2年生くらいの頃からちょっとグレ始めるんですよ。だから練習もしなくなったんです」。ほどなくして、後輩にポジションを取られスタメンからも外された。「どんどん悪い奴らに影響を受けて、寮を抜け出して夜の街に行ってみたり。そこでDJを見て、俺もなりたいってなって」。この出来事が後の人生を変えた。

 そんな生活を繰り返していると寮を追い出される実家から通学することになったが、野球部には在籍を続けていた。「今振り返ると、部員も多く、落ちぶれ部員だったのによく監督は背番号をくれたなと思います。当時の監督にありがとうって言いに行きたいくらいです」。

 部活を引退後、憧れを持っていたDJをやり始めるようになる。といっても、遊びの延長線で、卒業後は福岡市内の情報処理の専門学校へ進学した。「バンドをやっている同級生がいて、僕がDJしていることを知って声をかけてくれて加入しました。それからそのバンドがうまくいきすぎて、デビューできたんですよ」。一見サクセスストーリーに思えるが、「僕はその中で何もやっていなかったんですよね。バンドにDJがいても意味がなかった。そのときから、プロとは何かを意識し始めるようになりました」。

 この時期もう一つ、寛斉さんにとって大切なご縁があった。「その頃由美ちゃん(寛斉さんの妻)に出会ったんです。そこからずっと一緒にいますね」。

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上京し、ひたすら曲をつくり続けて

 デビュー後、ツアーを経験した。「まわっていたときに偶然一緒になったバンドが、ブラックミュージックをやっていたんです。その頃って黒人の音楽をバンドでやるってほとんどいなくて。初めて見て感動して、また俺もこれになりたいって。浅はかですけど(笑)」。飛び火する、新しい世界への興味。しかし活動は順調そのものだった。「悩んでいたんですけど、特に親しかったメンバーのベース担当に打ち明けて。『ああいうバンドがしたいけん、辞めたいんよね』と。そしたら、『俺もそう思いよるんよね』って。じゃあ辞めるって言おうとなって、言ったら大喧嘩でした。ペットボトルの投げ合いです。タイミングも悪かったのですが、もうモチベーションもなくて、ひたすら頭を下げました」。
 そうして、ベースとともに新しいバンドを始めた。「本格派の音楽をやるから実力がないといけないと思って、ピアノを習い始めました。23歳くらいの頃ですね」。寛斉さんは、ボーカルとピアノを担当し、ギターとドラムも加入した。「4人でやり始めたらまたうまくいって、東京の事務所と契約が決まり27歳で上京しました。運が良かったんです」。
 事務所が一軒家を借り上げ、共同生活が始まった。週12曲作曲するという課題が与えられ、約3年間もがき続けた。「もちろん駄作もありますが、結局800曲以上はつくったのかな。バッグバンドやコーラスの仕事をもらいながら、飲食店でアルバイトもしていました」。

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人生を変えられた出会い、そしてアメリカへ

 ようやく曲を出せることが決まったが、違和感を持ち始める。「僕らはバックバンドのために上京したんじゃない、何しに来たのかなと。案の定社長がレコーディングしたい曲と合致しなくて、得意の反発をするんです(笑)」。メンバー間で話し合い、契約解除を決意。「そのまま自分たちのレーベルをつくりました。アルバムをリリースして、ワンマンライブもやって。そこそこ形にはなったのですが、僕はちょうど30歳になっていて、メンバーはみな将来を考え始めるんです」。話し合いを経て、解散を選ぶ。「僕とドラムだけ他の事務所に作曲家として移りました。でも心のどこかに、裏方よりはアーティストでいたいという思いがまだあって」。
 時を同じくして、とある出会いがあった。「妻の親友の旦那さんなんですけど、相談すると『楽器を含めて荷物を全部捨てて家も引き払って、一度海外に行っておいで』と言われたんです。作曲家ではなくアーティストとしてどれだけ自分が通用するかを見極めるために行くことにしました」。由美さんも仕事を辞め、荷物も捨て、バッグ一つで寛斉さんとともにアメリカへ渡った。助言に従い、渡航は3ヶ月と決めていた。
 「二人で人生を賭けて行きましたね。だからこそ現地に降り立った瞬間というか、向かう機内でもうどうするか決めていた感じがします。頭のどこかで向いていないというのはあったんです」。本物を見てレベルの違いに圧倒され、音楽から足を洗うことを決断。帰国の途に就く。(後編へ続く)

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